海軍の町、佐世保を訪ねて

 明治150年、ことしの連休のテーマは日露戦争の勝利を決定づけた日本海海戦にした。
長崎県の対馬市と佐世保市を訪ねた。

佐世保は、明治政府が築いた四鎮守府(海軍の本拠地)のひとつで、横須賀市、呉市(広島県)、舞鶴市(京都府)とともに文化庁の日本遺産に認定されている。

日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊が凱旋入港したのは、佐世保鎮守府があった佐世保港である。

私が訪ねたのは5月4日だったが、その日の長崎新聞の「きょうの歴史」欄には「1886年(明治19年)、佐世保村に鎮守府設置の公示が天皇名で出される」とあった。あまりにも、偶然の一致! 明治22年開庁だから、いかに仕事を急いだかわかる。佐世保に決める前、海軍は大村湾など近隣の湾も含めて測量、比較したのが、東郷平八郎少佐だった。

 1時間の「SASEBO軍港クルーズ船」で港内を巡った。海上自衛隊の数多くの護衛艦や(イージス艦やヘリ搭載艦も)補給艦、海上自衛隊に入隊する隊員が最初の教育を受ける佐世保教育隊、米軍の大きな軍艦や米軍基地の石油タンク群(地上に見えるタンクよりも地下タンクの方がずっと多く、太平洋艦隊のすべての艦艇のタンクが空になっても3ヶ月分を補えるそうだ。)

中国からのクルーザー(乗客は上陸し、ハウステンボス観光中という)、佐世保重工業のドック群(旧海軍工廠。大正2年完成の巨大クレーンが今も使用されている)、海上保安庁の巡視船などが間近に見られた。

地元の北村誠吾衆議院議員(同期当選、元防衛副大臣)の紹介で水交会(旧海軍と海上自衛隊のOB会)佐世保支部の外村尚敏会長(元海将補、テロ特措法に基づくインド洋上の補給活動に艦長として従事し、五隻の補給艦を統括する初代の第1海上補給隊司令)が一日同行してくださった。

田島岳高射砲台跡(第2次大戦中につくられたが、昭和20年6月の佐世保空襲ではほとんど役立たなかった)や「錨と桜」の旧海軍マークのついた旧鎮守府正門(今は海上自衛隊佐世保地方総監部)、旧佐世保鎮守府凱旋記念館(第1次大戦において、日本海軍が地中海で英国など連合国の軍民の船を守るためなどに名声を高めたのを受け、佐世保鎮守府管下の九州、四国など12県からの寄付だけで大正12年に建てられた鉄筋コンクリート造。戦後は米軍がダンスホールや映画館などとして使用したが、昭和52年に返還。同57年から市民文化ホール)、海上自衛隊佐世保資料館、現在は西九州倉庫(株)が使用する巨大な前畑1号倉庫(大正11年、魚雷の格納庫として竣工)など日本遺産に含まれる数々の遺構を視察した。

弓張の丘(田島岳)からは、天然の要塞とも思える入り組んだ湾が眺め渡せた。8年前、観光解放されたばかりの中国旅順港を高地から見下ろしたことがあるが、似た印象を受けた。旅順港はロシア第1太平洋艦隊の本拠地だった。(バルチック艦隊は第2太平洋艦隊)

現在は日米官民が利用する港だが、かつてはすべて日本海軍であり、湾口(約900mと狭い)は敵の機雷敷設を警戒して厳重に守られた。戦前は機密事項だらけで、市民が高地から軍港を見渡すことなど出来ず、観光とは無縁だった。

1905年(明治38年)5月27日から28日にかけて対馬沖で行われた日本海海戦は、世界史上空前の圧勝だった。

ウラジオストク軍港を目指した38隻のロシア艦隊のうち26隻が撃沈または捕獲され、特に戦艦など大型船は全滅した。10隻が逃走中、沈没したり他国の港で抑留され、全滅に近かった。
一方、日本艦隊は水雷艇3隻が沈没しただけだった。
ロシアは戦死者4545人、司令長官以下6106人が捕虜となった。
一方、日本側の死者は116人にとどめられた。(人数は「三笠保存会」より)

5月30日、東郷司令官が乗艦する旗艦「三笠」を先頭に日本の連合艦隊は捕獲したロシア艦船も従えて佐世保に入港。
重傷を負って捕虜となったロシアのロジェストヴェンスキー司令長官は佐世保の海軍病院特等室に収容されるが、東郷司令官が病室を訪れ、丁寧に見舞った様子を描いた絵も海上自衛隊佐世保資料館(セイルタワー)で見ることができた。

それから40年後、第2次大戦で日本の敗色が濃くなった昭和20年4月、戦艦大和が片道燃料で沖縄へ向け出港するも、あえなく撃沈され、連合艦隊が壊滅するが、残存したわずかな艦艇が集結を命じられたのも、ここ佐世保だったという。
栄光と敗残。日本海軍の明暗を象徴している。

 

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