親日国、ミャンマーとアウンサン父娘(ミャンマー視察③)

帰国後、ミャンマーの親日ぶりについて、2人の大臣と話が弾んだ。

岸田外務相に「夏はどこか行った?」と尋ねられ「ミャンマーに行きました。算数や理科だけでなく、(価値観を伴う)国語や社会科の教科書作りまでJICAが協力しているんですって。日本は信頼されているのですね」と述べると、外相いわく「あそこの大統領は日本で半年間働いていたことがあると言って、会うと、うれしそうに日本の話ばかりするんだよ」。

稲田防衛相も「ミャンマーの国防相が来た時、会見の冒頭、記者もいるところで『日本と日本軍のおかげで我々は独立できた』と言ってくれた。うれしかった!」と話していた。

ミャンマー(旧ビルマ)は1886年にイギリス領インドに併合され、植民地となる。華僑やインド人が移り住み、地主や商人として力を持つようになった。さらに英国は、国境近くの少数民族(といっても人口が百万人を超す民族も複数ある)を警察署長や郵便局長などにつけ、人口の7割を占めるビルマ族を最低辺に置いて支配した。今、アウンサン・スー・チーさん率いるミャンマー政府の最大課題は少数民族問題だが、英国のこうした支配のやり方がビルマ族と少数民族の根深い対立を生む要因となっている。<末尾の年表参照>

アウンサン・スー・チーさんの父、アウンサン将軍は「建国の父」「建軍の父」とミャンマーの人たちに敬愛されているが、独立運動家として英国に迫害され、国外脱出中(中国・アモイ)に日本陸軍の「南機関」(機関長、鈴木敬司大佐)と出会い、日本に亡命。当時、ビルマなどアジア人にとって、日露戦争でロシア(西洋)を破った日本は尊敬の対象だった。(ちなみに、今は同様の理由でベトナムに敬意を払っているらしい)

南機関は、ビルマの独立を助け、英軍を追い出すねらいで、アウンサンらビルマ族の「30人の志士」を中国・海南島や日本領の台湾で猛訓練した。彼らを幹部とする「ビルマ独立義勇軍」が結成され、太平洋戦争開戦直前、ラングーン(ヤンゴン)目指して進軍する。

しかし、開戦とともに日本軍が破竹の勢いで進軍、英軍を撃退すると、陸軍中枢部は軍政を敷くことを決め、南機関を解散してしまう。その後、日本陸軍はビルマ、インド国境付近の無謀なインパール作戦で惨敗、餓死、戦病死が相次いだ敗走経路は白骨街道とも呼ばれた。

日本の敗北が決定的となった1945年春、アウンサン将軍率いるビルマ軍は、戦後の独立交渉のため日本軍に反旗を翻す。アウンサン将軍は1947年、閣議中に暗殺され、ビルマは翌年、英国からの独立を果たした。英連邦への加盟を断固拒否するほど、英国への反発は強かった。

こうした経緯から、日本軍がビルマ軍の基礎をつくり、独立に導いたと感謝されてい>るのだ。

日本の戦後賠償の始まりはビルマ(フィリピンやインドネシアより、対日感情がよく条約を結びやすかった)で、水力発電などを建設した。1962年にクーデターを起こし閉鎖的社会主義体制を敷いたネ・ウィン将軍も「30人の志士」の1人で、日本に来るたびに南機関の教官だった人たちや鈴木敬司大佐の未亡人に敬意を表し、最高位の勲章を送った。

アウンサン・スー・チーさんは、まさにミャンマーのカリスマだ。幼少時、父を

暗殺事件で失い、インドさらに英国で学んだ。何度も「軟禁」されたことになっているが、「政治活動の禁止」と表現した方が妥当だと思

う。投獄されたわけではなく、湖に面した千坪以上の敷地内の豪邸に住み、活動が許されてからは週末午後に、塀の上から何時間も演説した。市民があふれ、これを当てにした物売りがあふれ、交通が渋滞したという。今は首都ネピドーで仕事し、週末、この家に戻っているそうだ。

昨年の選挙で圧勝した党を率いる彼女が大統領になるのが筋だが、憲法上、なれない事情があった。軍が作った憲法には「外国籍の家族がいる者は大統領になれない」と定められ、スーチーさんと英国人の夫(故人)との間の2人の息子は英国籍なのである。彼女は側近を大統領にし、日本を含む諸外国は、国家顧問兼外相のスーチーさんを国家元首として遇している。実を取ったと言える。

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