25年表彰と公募第一号の私

5月22日、安倍総理をはじめ13人の先輩たちが、永年勤続表彰を受けられた。

自民党の林幹雄氏、山本公一氏、鴨下一郎氏、 塩崎恭久氏、安倍晋三氏、浜田靖一氏、茂木敏充氏、岸田文雄氏、野田聖子氏(年齢順)、国民民主党の前原誠司氏、無所属の玄葉光一郎氏、共産党の志位和夫氏、穀田恵二氏。この時ばかりは与野党関係なく、議場の誰もが13人すべてに心からの拍手を送った。(と思う。)

25年間議員であり続けた、特にこの先輩たちは中選挙区最後の選挙で国政入りし、その後9回当選し続けてきたのだ。尊敬せずにはいられない。林自民党幹事長代理が年長ゆえに謝辞を読んだ。

彼・彼女らが初当選した平成5年夏、私は朝日新聞の政治記者として、宮沢内閣の不信任案可決、衆議院解散、その後の8党の細川連立政権内閣が誕生する過程を追っていた。この時、自民党は断トツの第一党だったにもかかわらず、連立政権の組み立てに失敗し、初めて野党に転落した。2009年夏の選挙で麻生総理のもと自民党が惨敗して(私も落選して)野党になったのとはまったく状況が違った。

なお、野田聖子さんはこの時何十年ぶりかの自民党公認女性候補だった。田中真紀子さんは無所属で電撃立候補、当選後に自民党入りした。

この時の自民党は野党になった後、離党する議員が相次いだ。ぽろぽろと脱け落ちるという感じだった。私たち記者は最初のうちは「次は誰だ?」と追いかけていたが、そのうち記事にして目立たせてあげるのもしゃくになり、「今日の脱党者一覧というコーナーを作ろうか」などと冗談を言うようになった。

ともあれ自民党が野党になったこと、そして翌年、細川護煕首相と河野洋平自民党総裁が合意して小選挙区制への転換を決めたこと、この2つがそろったからこそ、衆議院議員松島みどりが誕生しえたのである。というのも、小選挙区制になり、東京の選挙区の数はぐっと増えることになった。自民党は、多くの選挙区に空きが出た。

そこで自民党東京都連がすべての政党史上初めての「候補者公募」を行ったのである。東京都連幹事長だった与謝野馨氏のアイデアだった。

この25年表彰の日、議員会館の部屋に故・与謝野馨氏の本が届けられた。昨年5月21日に亡くなった先生のご子息たちが、先生が生前にホームページに書いたブログをまとめ、一周忌に合わせて出版されたのだった。

その中に、このころのことが書かれている。

「当選6回、次は大臣かと期待していたところに野党に転落し、毎日毎日が虚しいものになってしまった」。

与謝野氏は「都連の幹事長をやっており、この仕事である程度忙しくなれた。候補者のいない選挙区が幾つもあった。さて、どうやって候補者を見つけることができるのか?私は大胆にも『公募』というものを自民党として全国で初めて実施した。地盤もお金もない候補者で、資金的に大丈夫かと随分、人から言われた。

だが、この時、公募で公認を取った松島みどり氏は、東大出身、元朝日新聞記者というのがウリになり当選。その後も当選を重ねて大臣にまでなったのであるから、本人の努力は相当なものであったに違いない。」とこの著書にある。

中曽根康弘氏、梶山静六氏、小泉純一郎氏といった大物しか名前が登場しないこの本で、与謝野さんより後輩で名前が出てくるのは私だけである。

小沢一郎氏が陰で糸を引いた細川連立内閣、続く羽田内閣はいずれも短命に終わり、自民党は社民党の村山富市氏を首相にかついで「自社さ政権」として政権復帰した。

だから公募に通り、立候補予定者となったときは、自民党は与党に戻っていた。でも、若手議員の頃は「自民党が、野党の時に飛び込んできた」と、しばしば、ほめられたものだった。

この初の公募に応募したのは50人ほど。作文と面接で3人(他の2人は男性)が候補者となり、結局、議員になれたのは私だけだった。

小選挙区最初の選挙(1996年)は惜敗率96%で落選したが、2000年に初当選。民主党政権誕生の2009年夏、惜敗率84%で落選したのをはさみ、現在6期生となった。

「公募で当選」は私と同期の松野博一さん(前文部科学大臣、千葉)が第1号となった。

私が25年表彰を迎えるには、まだ10年と数か月ある。まずは体力づくりと地元のお祭り行脚だ、と自らを励ます。

 

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