遺骨引渡し式に党代表として参列

ロシアのハバロフスク地方とアムール州に派遣された「旧ソ連抑留中死亡者遺骨収集団」が帰国し、ご遺骨の引渡し式が19日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われた。自民党代表として参列し、献花した。

55人の御遺骨が持ち帰られた。第二次世界大戦が終わった後にソ連軍に連れて行かれ、強制労働に従事させられ寒さと飢えと病気で苦しみながら亡くなった人たちのことを思った。 …続きを読む

夏の始まり、ラジオ体操

17日(月)海の日、荒川区ラジオ体操中央大会が荒川公園(区役所公園)で開かれ、参加した。

625分から、ラジオ放送に合わせてみんなの体操、ラジオ体操第一体操、第二体操をした。

休憩後、牛乳で乾杯、あんぱんをもらった。

荒川区内には年中無休のラジオ体操会場が22もあり、高齢者を中心に熱心。

墨田区の言問小(向島地域)、横川小(本所地域)で行われる中央大会にも参加予定だ。 …続きを読む

政治家松島みどりの生みの親、与謝野馨先生

元衆議院議員、与謝野馨先生の「お別れの会」が本日7月5日、青山葬儀所で開かれた。自民党と与謝野家の合同。4月末に、病床の先生の強い希望がかなって復党が認められ、本当によかった。与謝野さんの声かけと尽力がなかったら、政治家松島みどりは誕生していない。

自民党が初めて野党になり細川8党連立内閣が誕生して約半年後、小選挙区制度が導入されることになった。東京は一挙に選挙区が25に増え、候補者が足りない状況だった。私は朝日新聞の政治部の記者、与謝野先生は当時、都連幹事長だったが、直接の面識はなかった。大好きな与謝野晶子の孫(私は高校時代、二時間にわたり晶子の研究を発表したことがある)で東大野球部マネジャー出身(私はずっと後輩の応援部)という認識しかなかった。全国的にも新人候補が足りず、亀井静香先生など複数の議員にも声をかけられた。故塚原俊平元通産大臣に与謝野さんを紹介され、私を認めてくださり、自民党初の公募を実施するから受けてほしいと言われた。

作文と面接に通り、選挙を目指す立場になることが決まった。36歳から37歳にかけてのことである。選挙区は墨田、荒川の東京14区を選んだ。自社さ連立政権で与党に復帰後、与謝野先生は忙しい公務の間を縫って、荒川区や墨田区の区議会控室に足を運んでくださった。「松島さんは私以上に経済界に顔が広い」とか「資金については心配しないでください」とか大風呂敷を広げて区議らを説得してくださった。 …続きを読む

                                             

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